「世の人は我を何とも言わば言え、我がなすことは我のみぞ知る」坂本龍馬


 

 


 

第1章 小学校から大学まで

1. 病弱な子ども時代

「お前は一度死んだ人間や」

Class photo

進藤晶弘は1941(昭和16)年、愛媛県新居浜市で生まれました。小学2年の時大病を患い、3回手術しています。そのたびに両親は医者から「覚悟するように」と 言われましたが、奇跡的に助かりました。しかし、全身麻酔による後遺症で記憶喪失になり周囲を心配させました。両親は健康だけを願い「勉強しろ」とは 一切言いませんでした。 遊んでいれば親が喜ぶので、進藤は学校から帰ると、暗くなるまで山や川、海で遊びました。その結果自然相手に冒険心や決断力が養え、 母親からは「お前は一度死んだ人間や。どんなにつらいことでも乗り越えられる」という言葉を聞かされて、腹も据わりました。

オール優だった成績がいくら落ちても気にしませんでしたが、後遺症が薄れた中学1年の時、試験で高得点を出したときに、先生に「よくやった、やればできる」 と褒められたことがうれしくて、勉強にも励むようになりました。そして高校は地元の名門に進学しました。

 

2. 高校・大学時代

化学への興味

Chemestry

高校の授業で見た化学反応に、身が震えるような感動を覚えて、化学に興味を持つようになりました。大学で化学を学びたかったのですが、兄が進学していたため、 進藤は就職して家計を助けてくれるものと思われていました。そんな折、地元の愛媛大学に工業化学科が新設されました。高校の恩師が、国立大の授業料は高校より 安く自宅から通えると両親を説得して、進藤の進学希望をかなえさせてくれました。

希望に胸を膨らませ第1期生として入学した工業化学科は、実験器具もなく、授業内容も決まっていない状態。進藤らは教官と一緒になって、実験の環境作りから 始めました。この体験から、ゼロベースから物事を立ち上げて成し遂げる楽しさ、やりがいを学びました。

卒業後は住友化学や帝人、東レなどの化学系に行くつもりでした。しかし指導教授から「化学系の会社には化学屋がたくさんいるから大事にされない。化学屋が 珍しいところに行け」と言われました。研究室も電気化学だったので、就職先は三菱電機に決めました。

 


 

第2章 社会人としてスタート

3. 三菱電機に入社

目先の不運を嘆くべからず

進藤は入社後、新設されたばかりの京都製作所に配属されました。ここでも第1期生でした。同僚は当時の進藤の印象を、「後の大胆な行動やエネルギーを感じさせる ものはなかった。どちらかというと無口で地味な存在だった」と振り返っています。

Work colleages

京都製作所では光センサーの製造課に配属されましたが、当時はまだ需要が少なく、事業として成り立ちませんでした。会社は、事業から撤退することを決断し、 撤収作業を進めましたが、進藤ら大卒の3名は次の配属先が決まらず、がらんとなった事務所に取り残されました。

最初は専門書で勉強していましたが、やがて専門書は小説に、さらに週刊誌へと変って、無為に時間ばかりが過ぎていきました。目的を失った時間を過ごすことに 我慢できずに辞表を出すと、ようやく会社も腰をあげ、光センサー技術をミノルタカメラ(現コニカミノルタ)に移管することを決定。進藤ら3名が出向して技術移管 にあたることになりました。

進藤は入社後の2年間で、事業撤退、窓際族、出向、転勤とサラリーマンの縮図をひと通り経験しました。この期間は今振り返ってみればどんな困難にも負けない精神力 や起業家精神を無意識の間に学んでいた2年でした。

 

4. ライフワークとなるICに出合う

初めて自分の存在感を感じる

Work colleages

光センサーの技術移管を終えて会社に戻った進藤は、半導体集積回路(IC)事業のスタートを切った北伊丹製作所に転勤しました。会社初の半導体集積回路の 事業化でしたので、ここでも1期生からのスタートでした。

最初の1年は、管理部門で仕様書の標準体系作りや原価計算、事業計画、投資計画、生産計画策定などに携わりました。しかし、半導体のプロセス技術者として 2年間遠回りしてきた進藤は、初めから準備に携わっていた同期から、「あんたみたいなのは使いもんにならん」と心無い言葉を浴びせられました。負けじ魂に 火がつき、必ず追いつこうと熱い気持ちがこみ上げました。

Acquiring knowledge

この頃の日本にはまだ集積回路の文献もなく、ICの黎明期といえる時代でした。進藤は少しでも多く知識を得るため、先輩や技術者のほか、当時ICの生産を下支え していた「トランジスタ・ガール」にも教えてもらいました。文献や作業仕様書を読み、現場の女性たちの作業を見、実際にその作業もさせてもらい学びました。 進藤は同期より遅れている分を取り戻そうと、会社で過ごす1分1秒を大切に死に物狂いで勉強しました。

北伊丹製作所では転勤して2年後、MOS型 integrated circuitの開発チームに参加し、開発の成功に貢献しました。それ以降ほとんどの最先端製造技術開発に従事 しました。そして32歳でヒト、モノ、カネの経営資源を掌握する半導体製造係長に昇進しました。

70年代に入ると、インテルがマイクロプロセッサや周辺用LSI とメモリーの概念を発表。テキサス・インスツルメンツやモトローラも次々に製品を出し、半導体 業界は急速に発展しました。進藤も毎年のように回路の集積密度を高めましたが、微細加工技術で容量を増やすだけの世界に創造性を感じなくなり、いつしか 興味は回路設計へと移っていきました。

 


 

第3章 人生の転機。転職、運命的な出合い

5. リコーに転職

半導体事業を起ち上げる

Clean room group photo

1979(昭和54)年、進藤は38歳でリコーに転職しました。当時からリコーは複写機業界をリードしており、自社製品に使う半導体の内製化を目指していました。 ここでも新規事業に取り組んだ進藤は、技術者を集めることから人材の教育・育成、工場の設計と建設、製造技術の開発などあらゆる仕事をこなしました。 しかし半導体事業に関しては実績のない会社だけに、なかなか注文につながりません。リコーの事務機器部門にさえ採用されませんでした。仕方なく進藤は自ら 顧客獲得に動き、米国にまで営業活動の範囲を広げました。

Getting personally involved

当時米国では、設計だけを行い生産は外部に委託するファブレス企業が台頭、活躍していました。そんななか進藤は、設計を専門にし、日本や台湾のメーカーに 製造を依頼する典型的なファブレス企業であったVLSI Technology, Inc.(VTI)と巡り合います。VTIが設計したものをリコーが製造するファウンダリ(Foundry) ビジネスを受注することによって、リコーの半導体事業が始まりました。

 

                                          6. 任天堂との運命的な出合い (1)

任天堂のコンセプト

The idea of Nintendo

国内でも大きな動きがありました。1980(昭和55)年頃、携帯型ゲーム機「ゲーム&ウオッチ」を発売し大成功を収めた任天堂が、次の成長基盤を築くため家庭で 手軽に楽しめる据置型ゲーム機の開発を考えていて、実績がない新参者のリコーにもチャンスを与えてくれました。

「ゲーム機は子供が使うので、価格はお年玉やお小遣いで買える2万円以下」と、任天堂のコンセプトや事業理念は明解でした。ゲームに特化したゲーム専用機であり、 そのためには2チップまでのLSIが必須でした。任天堂の構想は以下の通りでした。

  • 子どもでも使えるようにキーボードレスにする
  • 3年以上類似品が出てこないようにする
  • 業務用ゲーム機でヒットしているドンキーコングの動きと音質を実現する
  • 一つのゲーム機(プラットフォーム)でいろいろなゲームソフトが楽しめる

進藤はこのコンセプトに感銘を受けて課題を持ち帰り、社内で検討を始めました。


7. 任天堂との運命的な出合い (2)

非常識と不可能に挑戦

Family playing Nintendo

任天堂のコンセプトに対して、技術者は否定的な反応ばかり。進藤は何とか実現策はないかと考えて、次のようなアイデアを出しました。

  • 業務用ゲーム機に使われている制御基板を入手し、使われている画像処理やCPU(中央演算処理ユニット)、メモリーを集める
  • 集めたLSIのチップを取り出し、顕微鏡写真を撮る
  • 必要部分を切り張りして分け、約2メートル角に仕上げる
  • 心臓部に世界最小面積であった6502 8ビットCPUを採用する
  • これを、複写機を使って20cm角の画像になるまで縮小する

進藤のアイデアはまさにシステムLSIの概念を創り出すものでした。「この方向でやりましょう」との話になり、2チップ構成のシステムLSIを設計することに なりました。 ところが、社内の設計者にも縮小図を見せたところ、さすがに大規模な回路を約1cm角シリコン基盤上に集積することは至難です。そこでも進藤はアイデアを出し、 任天堂との共同開発チームを編成して、不要な機能を徹底的に削り、回路規模を小さくして2チップのシステムLSIに集積する開発に成功しました。

こうして1983(昭和58)年、任天堂の「ファミリーコンピュータ」14,800円が発売され、大ヒットします。そしてリコー半導体事業部も1990年には従業員数1,100名、 年商400億円に成長しました。

 


 

第4章 メガチップス創業

8. 創業の決意

半導体産業のあり方に疑問

Through the fire

大きな成功を収めながら、進藤は日本の半導体産業のありかたに疑問を感じていました。 80年代後半、世界を席巻した日本の半導体は日米半導体貿易摩擦問題を起こし、米国の産業を衰退させるとまで言われました。しかし米国の真の競争力は 産業上流の応用やアルゴリズムといった創造的な技術分野であるので、産業下流の生産が海外に移っても産業上流における国際競争力で米国の産業は必ず 再成長すると進藤は確信していました。

一方日本は、工場を中心とした生産力を競争力とするハード偏重の体質。進藤はシリコンバレーで見たファブレス形態(顧客の注文に合わせてLSIを設計し、 生産は外部の半導体企業に委託する方式)こそが、新規に半導体産業に参入するベンチャーにとっては生き残りのカギだと考えていました。このような考え方は 製造技術を競争力に工場を主体にした従来型の経営を目指す会社とは、大きな隔たりがありました。ファブレスに否定的なのは社内だけではありません。進藤は 各方面から非常識だ、気が狂ったと非難されました。   これで進藤の反骨精神に火がつきました。「自分の考えが正しいことを証明しよう」と、それまでにない企業像を目指して、残りの人生をかける決心をしました。

 

9. メガチップス創業

バブル期に、オフィスレスと失業を乗り越える

進藤は1990年の正月明けに会社に辞表を提出しました。システムLSIに特化した研究開発型のファブレス企業を育てるという壮大な夢に懸けたのです。

Yodogawa Baseball Club

仲間も6人ついてきてくれました。7人の侍による「LSIとシステムの知識の融合を核にして、システムLSIに特化した新たな半導体企業」への挑戦が始まりました。 DRAM (Dynamic Random Access Memory)のような画一的な製品で熾烈な競争を繰り広げる大手企業とは違う、新しい方向への船出でした。

しかしすぐに壁に直面しました。担保がないので事務所が借りられません。最初の3ヵ月は趣味の会やサッカー同好会と偽って近辺の公民館を転々と借り歩き創業 準備を行いました。銀行口座も開設できません。結局、飛び込みで入ったビルや銀行で、部屋を借り、口座を開くことができやっとの思いで創業にこぎつけましたが、 創業メンバー全員が2ヵ月の失業期間を経験しました。

創業すると、メンバーがそれぞれの人脈を頼りに、注文を取りに走りだしました。

 


 

第5章 究極の選択

10. NKK(旧日本鋼管)に入社

順調な起ち上がりから奈落の底に

まず、日本鋼管(NKK、現JFEホールディングス)からLSI開発の業務委託を受注しました。当然のこととして、発注する側は創業間もないベンチャーに開発の 達成を担保させるため、資本の過半数を持ちたいと要求されましたが、要求を断ると、今度は半導体の知識を得るため進藤自身がNKKに入社するという条件に なりました。

Downturn

注文がなくては会社がもたない、進藤はそう決断して経営を後継者に任せ、自分は単身でNKKに入社することにしました。この年、メガチップスは従業員24名となり 売上高5億円、経常利益2,800万円を達成し順調に立ち上がりました。NKKに入社した進藤は技術者の育成を行うとともに電子デバイス研究所の起ち上げに尽力し、 2年後にメガチップスに復帰しました。.

その頃バブル崩壊による不況が始まっていました。受注した仕事にも次々とキャンセルが発生。一方でメガチップスを買収したいという話もあり、社員に動揺が広がり ました。大手企業の傘下で継続を図るか、自主独立で歩むか。メガチップスに「究極の選択」が迫っていました。

 

11. 有馬会議

究極の選択とメガチップスの価値観

自主路線か大手企業の傘下かという究極の選択に、進藤は次の3点を提案しました。

  1. 1.人生の重みは全員平等。したがって全員参加の議論による決定を行う。
  2. 2.自分の価値観、意見を押し付けない。そのため経営理念、行動指針、経営原則などの各自の価値観を書いて事前に提出してもらう。
  3. 3.究極の選択の拠り所とする経営原則を決めて、それに基づいて会社としての最終判断をする。

当時の社員21名全員が有馬温泉に集まり、1泊2日で討論しました。進藤の目的は、全員が参加した議論を通して、メガチップスの経営の原則を 確立することでした。遠回りのようでも、皆が共有できる価値観が一番大切だと考えていたからです。

長い討論の後、別室で控えていた進藤が呼ばれました。議論を尽くしても「安定継続」の道をとるか、「自主独立路線」で進むべきか、平行線の まま決まらないので、結論を出してほしいとのことでした。進藤は「これだけ議論を尽くしたら多数意見が正しい」と、即座に議決を取りました。 結果は自主独立と決まりました。後日、意見が違った数人は会社を去ることになりましたが、残った者は再び一丸となりました。このときの経営 理念と原則はいまも継承されています。

ちなみに、経営理念は以下の通りです。

Employee meeting

経営理念:

「革新」により社業の発展を図り、

「信頼」により顧客との共存を維持し、

「創造」により社会に貢献し続ける、存在でありたい。

経営原則は、

  1. 1. 会社の発展と社員の幸せの一致を図る。
  2. 2. 自主独立で発展する。

この経営原則の2.で懸案だったメガチップスの進むべき道を自主独立路線と決定したわけです。

そして1994(平成6)年、メガチップスの発展の転機となる「Nintendo64」専用のマスクROMの開発を受注しました。進藤はマスクROMの製造先を台湾のマクロニクス社 (MXIC:Macronix International Inc.)に決めました。シリコンバレーで会ったVTI(VLSI Technology, Inc.)のMiin WuとTom Yiuが興した会社です。進藤とWu氏、 Yiu氏との話し合いで、両社の協力関係の話がまとまり、メガチップスは「研究開発分野に経営資源を集中して、生産は外部委託する」という国内初のファブレス企業 へと大転換を果たしたのです。

 

12. 阪神大震災

天災から生まれたアイデア

1995(平成7)年、阪神・淡路地区を激震が襲いました。通信網が遮断したなか、社員が必死に安否を確認し合いました。全員無事でしたが、約1/3の社員が避難所 生活を余儀なくされたり、交通網がズタズタで通勤不可能な状態でした。出社できる人達が力を合わせてオートバイで食料や水を届けたり、怪我をした家族には ホテルを確保して治療が受けられるようにするなど、苦境の中にあって社員同士が助け合い、その絆がいっそう強まりました。

Earthquake destruction

全員が出社できるようになったある日、製品開発会議で、避難所生活を体験した開発者から提案がありました。道路や避難所などあらゆる場所に設置でき、無線や 電話の通信回線で画像伝送ができる小型の動画伝送専用システムを作りたいという提案でした。こうして生まれたのがリアルタイムビデオコーデック(RVC)という 画像伝送システムです。

この製品の事業化で1996年、経済産業省(当時通産省)から特定新規事業法による認可を得て、国内初のストックオプション第1号企業に認定されました。新製品も 次々に発表。パソコンを使わない専用動画伝送システムのパイオニアとして業界から高い評価を得ました。そして翌年、会社成長の契機となったニンテンドウ64と メガチップスの画像圧縮伸張ボード「PC-RVC」は、日経産業新聞<優秀賞>を同時受賞しました。

 


 

第6章 ジャスダック、そして東証1部に上場

13. 永続企業としての一歩

ストックオプションを実施してジャスダックに上場

メガチップスは、ニンテンドウ64に特化した専用マスクROMの供給で急成長を続けました。進藤は、1994(平成6)年に日本合同ファイナンス(現JAFCO)から 出資の申し出を受けたことを契機に、次の目標を株式の上場に定めました。

JASDAQ

まず、社内に株式公開準備チームを編成し、主幹事になる野村證券とあさひ監査法人とで準備を始め、あわせて経営原則の一つである「会社の成長と社員の幸せの 一致」を実行するため、ストックオプション付与の体制づくりに着手しました。

ストックオプションの実施には、定款の変更や付与プロセスの開示、公平性の確保が必要です。新設したストックオプション審査委員会で規定を定め、各部署から 推薦された候補者を審査しました。97年に最初の21人に、翌年に第2陣を実施して「全社員が株主になる」を実現しました。業績は引き続き順調に推移し、1998年8月、 ついに店頭(現ジャスダック)市場に上場しました。「永続企業への脱皮」、創業から社員とともに目指した「自立」と「会社の成長と社員の幸せの一致」という 経営原則が同時に実現できたのです。

 

14. やりたいことをやり遂げる

後継社長を育成し、経営から身を退く

Teaching

上場の目的の第一は、日本初のファブレス半導体企業として成功し、同じビジネス・モデルを目指すベンチャーに良い先例を示すことでした。第二の目的は、 ストックオプションの第1号認定企業として、この制度を定着させて社会的責任を果たすこと、そして第三は会社の経営基盤を強固なものとし真に自立させること でした。進藤はジャスダックに上場したあと、東京証券取引所第一部に上場したいと思っていました。また、会社が増収増益を続けている中で、代表取締役社長を 退き、後進に経営を引き継いでほしいと願っていました。

上場当日、会社に戻った進藤は、松岡専務を呼び「私は20世紀の人間だ、21世紀になる2000年の株主総会を機に退任するので、後はあなたと創業メンバーが力を 合わせて経営してほしい」と告げました。60歳での退任宣言です。その一方で、60歳からの10年間で新たに何かに挑戦したいと考えていました。

後日譚ですが、メガチップスは松岡新社長のもと、2000(平成 12)年12 月に東京証券取引所市場第一部への上場を果たしました。

また、いち早くストックオプションの制度を導入するなど、人を重視し大切にする人材が資産という考え方は、当時からメガチップスの基本理念でした。この考え方 は今も脈々と受け継がれ、当事者意識を持って自らの意志で行動する自立型人材の育成や、社員の声を積極的に経営に取り入れる風通しのいい自由闊達な社風に つながっています。

 


 

15. 番外編 1

インタビューから

「人材の育成に情熱を注ぐ」

Teaching

人生に何が大切かという質問に、進藤は「やりたいことに挑戦すること」だと答えます。人間にとってほんとうの幸せは「やりたいことをやり抜くこと」なので、 熱い思いがこみ上げてくるやりたいことを見つけ出せば、自分の思いに忠実に行動することが悔いを残さない生き方だという考えを持っています。

二つ目の答えが、「挑戦することに人生の意義がある」です。挑戦を怖れていては新しいものは生まれません。挑戦を続けている限り、歳には関係なく心は青春であり、 生涯現役であると考えています。

三つ目は「失敗から学ぶこと」です。人間にとって最も勇気がいるのが、失敗を認めること。失敗を認めて反省し、直そうとする人は真に勇気があり成長が保証されて いる人であると言っています。

人材を重視している進藤は、次世代のリーダー育成に多大な力と情熱を注いでいます。社内に進藤塾を開講して、新しいことに挑戦する自立した社員を育成したり、 創業期から培ってきた企業文化を脈々と継承させていくことが、残された責務だとも答えています。

 


 

16. 番外編 2

好きな言葉

龍馬に感銘を受ける

進藤は尊敬する人物を尋ねられると、真っ先に「坂本龍馬」と答えます。龍馬は独創的な発想と果敢な行動力で、武士社会から近代へと時代を大きく転換した維新の 立役者であり、日本でのベンチャーの元祖でもあるといえる人物です。進藤は龍馬の生き方や考え方から大きな影響を受けたと言います。

Quote

好きな言葉も、やはり龍馬が残した言葉で、「世の人は我を何とも言わば言え、我がなすことは我のみぞ知る」です。進藤は新しいことを成そうとした場合には、 この言葉を思い起こし、人の批評を気にすることなく信念を持って挑戦する気持ちを奮い立たせてやってきました。与えられた条件には柔軟に対応するが、やりたい ことに挑戦する原則だけは譲れないという、進藤のベンチャー魂に通じるものがあります。メガチップスの会長室には、この龍馬の言葉が額装して掲げてあります。

世の人は我を何とも言わば言え、

我がなすことは我のみぞ知る